無上の法に遇えた                      (大阪府 H)


 中学1年の夏休み、とても親切にしてくれた祖父が亡くなりました。初めて体験した身近な人の死。葬儀が終わり、火葬場に行くと、そこには一つまみの白骨となった祖父の変わり果てた姿がありました。衝撃でした。生身の人間が骨だけになるなんて・・・・・。言葉を失い、その場に立ちすくんでしまいました。
 
 そのあと夏休み中は食欲もなく、勉強も手につきません。2学期が始まっても半年間は精神的に苦しく、クラブもやめ、学校から帰っても家に閉じこもりがちでした。

 高校に進学すると、今度は、高校の先生が突然亡くなりました。さらに、クラスメートの交通事故死。いやが上にも、死について考えずにおれませんでした。
親鸞会大阪photo

 そんなことが縁となり、私は仏教に関心を持つようになりました。当時、仏教とは死者の供養であり、念仏を称えさえすれば助かる教えだと思っていました。
 幼いころに妹を亡くしていたため、月1回、本願寺末寺の僧侶が読経に来ていました。毎年1回は本願寺に行き、家では、毎朝お仏飯をお供えするまでは朝食を取らないことを守りました。

 しかし、家に来る僧侶の話は、人が変わるたびに言っていることが違い、読経では、『阿弥陀経』を飛ばして読んでいることを知り、寺に大きな疑いの心が出てきたのです。一度は龍谷大学に進学しようとも考えましたが、親の反対もあり、やめました。

 そうして神戸の大学に入学。そこで、本当の親鸞聖人の教えと出遇うとは夢にも思っていませんでした。

 初めて高森先生から『正信偈』についてのご説法を聞かせていただいたのです。「人生の大事業が、現在ただいまの一念で完成できる」と親鸞聖人のお言葉を通して教えていただき、ただただ驚きました。これが真実の仏法だったのか!
 そして富山の親鸞会館に参詣させていただき、二千畳の大講堂で仏教観が大変わり。

 死者の供養が親鸞聖人の教えだと思っていたのが、生きている人に説かれた教えだった。自分は間違った仏教を聞かされていた。もし、高森先生にお会いできなかったら、葬式法事が仏教だと思っていた。無上の法があることも知らず、一生をむなしく終えてしまっていたでしょう。

 祖父、友人の死を忘れず、無常を念じ、光に向かって進ませていただきます。