親鸞聖人と人生の目的


『歎異抄』第七章

念仏者は無碍の一道なり。
そのいわれ如何とならば、信心の行者には、
天神・地祇も敬伏し、魔界・外道も障碍することなし。
罪悪も業報を感ずることあたわず、
諸善も及ぶことなきゆえに、無碍の一道なり、と云々。

 弥陀に救われ念仏する者は、一切が障りにならぬ幸福者である。
 なぜならば、弥陀より信心を賜った者には、天地の神も敬って頭を下げ、悪魔や外道の輩も妨げることができなくなる。犯したどんな大罪も苦とはならず、いかに優れた善行の結果も及ばないから、絶対の幸福者である、と親鸞聖人は仰せになりました。


 私たちが人間に生まれてきたのは「無碍の一道に出るためだ」と明言されている親鸞聖人のお言葉です。
無碍の一道」とは、遮るもののない、絶対に変わらぬ幸福をいい、第一章には「摂取不捨の利益」と言われています。
 私たちは皆、幸せを求めて生きています。学校に行くのも、仕事をするのも、レジャーを楽しむのも、幸せになりたいからでしょう。
 しかし、政権は変わり、科学が発達しても、「ああ、生まれてきてよかった」と喜んでいるどころか、「こんなに苦しいなら、死んだほうがましではなかろうか」と思うことさえあります。「うれしい」「幸せだ」と思っても一時で、その心は永続しません。
 だから親鸞聖人は私たちに“無上の幸福・「無碍の一道」に、どうか皆さん、出てくれよ”と90年の生涯、伝え続けていかれたのです。

「無碍」の「碍」とは、碍り(障り)ということです。
 私たちは日々、いろいろな障りで苦しみ、悩んでいます。人間関係や病気、貧困、仕事のプレッシャーやリストラ、愛する人との別離など、さまざまな苦しみがやってきます。
 昇進した、好きな人と結婚できた、子供が生まれた、マイホームを建てた、病が治った、などの喜びもつかの間で、何らかの障りがくれば、いとも簡単に崩れてしまう。涙の中からやっとの思いで立ち上がっても、また次の困難がやってくる。まさに、障りだらけの世の中ではないでしょうか。
 しかし、それら一切が浄土往生の碍りにならなくなった世界を、親鸞聖人は「無碍の一道」と言われているのです。
「浄土往生?死んだ後のことなんて、考えられないよ。それより、生きている今を楽しめばいいじゃない」と思う人もあるかもしれません。
 しかし例えば、ちょっと体調が悪いなあ、と思って病院に行ったところ、「精密検査が必要です。ひょっとしたら・・・・・、悪性かもしれません」
と言われたとしたら、どうでしょう。
 医師の宣告を聞いた瞬間、心が凍りつき、周りの景色がまるで変わってしまった、と告白する人もあります。親鸞会大阪photo
 死が自己に迫る問題となった時、仕事や趣味、金や財産、名誉、家族、友人など、今、頼りにしているものの何が、心の支えとなってくれるでしょうか。それまでの人生観や価値観はガラリと変わってしまいます。
 心に去来する問いは、ただ一つ。私が死んだらどうなるのか――、ではないでしょうか。
 そんな死が、私たちの100%確実な未来に待ち受けているのです。これは、老いも若きも関係なく、いつやってくるか分からない現実です。
 私たちは、将来やってくるであろう問題、老後や病気、介護、災害などを予想し、不安をなくそうと、予防や備えをして生きていますが、最も確実な未来である死後については全く分からず、有るのか無いのかさえもハッキリしていません。それなのにこの死の問題を考えようともしていないのです。何という手抜かりでしょうか。
 この死んだらどうなるか分からない、後生暗い心、不安な心を「無明の闇」といわれます。
 その無明の闇がブチ破られ、いつ死んでも浄土往生間違いなし、とハッキリした明るい心に生まれ変わった世界を「無碍の一道」と親鸞聖人はおっしゃっているのです。
 死が来ても崩れない幸福ですから、この世のどんな障りも、浄土往生間違いなしの大安心大満足の障りにはなりません。
 この「無碍の一道」のことを「正定聚」ともいいます。「正定聚」とは「間違いなく仏になることに定まった位」の意で、いつ死んでも極楽へ往って仏に生まれることが定まったことです。

 蓮如上人は有名な「聖人一流の章」に

「その位を『一念発起・入正定之聚』とも釈し」 (『御文章』五帖目十通)

“平生ただ今の一念に、正定聚に入る、無碍の一道に出ることができるのだよ”と教えられています。

 この無碍の一道こそが、すべての人の求めて止まぬ幸せであり、人生の目的なのだと、親鸞聖人は断言されているのです。